ご訪問いただきありがとうございます。このblogは父親が子ども3人を育てる「子育て日記」です。
2009年2月3日に癌を宣告された女房。余命数か月と言われ12日後の2月15日に逝ってしまった。
心の準備もなく、最愛の妻と大好きなお母さんがいなくなった。小学5年生、幼稚園年長、2歳の子ども3人を遺し。無念だったと思う。2006年4月に会社の代表取締役に就任し仕事、仕事。家事なんてしたことない。まして料理なんて。泣きたいとか、辛いとかいう間もなく次の日から「代表取締役主夫」になった。
会社はじめ、友人、学校、地域の方々にお世話になりリズムある生活を過ごしてきました。が、2013年10月20日に「代表」辞任し会社を退職しました。会社も子育ても片手間では出来ない。周りの方々には「上手にすれば・・・」と言われましたが「上手に出来ない」のが性格で。母親の顔、ぬくもり、匂いを知らない3男。今、傍にいることが必要だと思い1年間専業主夫に。
子どもたちは現在26歳、21歳、17歳になった。仕事と家事子育の両立。「子育ては親育て」で「育児」は育自」とママ友に教わった。「育メン」ではなく「ガチメン」。毎日がドラマと思った時から全てが変わった。そんな父親の「子育て日記」をご覧くださいませ。ご訪問ありがとうございました。
登場人物:蔵馬(くらま)・雄祐(ゆうすけ)・孝太(こうた)
大丈夫です。子どもの成長は凄い [日記]
プライベートblogにUPした蔵馬の手紙2通です。一つは棺に入れた手紙。
もう一つは高校の野球部の卒部式に私にくれた手紙です。大好きなお母さんの
勧めで野球を辞め受験勉強をする。しかし大好きなお母さんがいなくなり目標が
なくなり受験を諦め野球に復帰する。蔵馬の6年間の成長です。
お母さんへ
お母さんへ・・・。ぼくはとてもさびしいです。お母さんが亡くなったときいた時は
「うそだ、うそだ」と思っていました。でもこれは事実でした。お母さんのしんぞう
が止まった時はすごくびっくりしました。でもお母さんは自力で生き返ったのですご
くがんばったと思いました。
もっと早くに病気のことを言ってくれば・・・・。
お母さんが亡くなったからぼくは精神的にだめです。お母さんがいないとさみしいこ
とがいっぱいです。
ぼくが100点をとってもほめてくれない、ゆうちゃんとぼくをポケモンセンターにつれ
てくれない、家のそうじができない。お母さんの料理が食べられない、本をかってくれ
ない、いっしょにねれない、おもちゃやゲームをかってくれない、かなしい時になぐさ
めてくれない、こうちゃんのお世話をしてくれない。そしてぼくたち三兄弟をむぎゅ~
としてくれない。でもさみしくないよ。ほんの少しの間だからね。
ぼくはもっとお母さんにもっといろいろなことをしゃべりたかったです。受験は同志社
中学にします。勉強をたくさんして絶対に受かります。だから空の上からぼくのことを、
ぼくたち家族のことをみまもってください。
お父さんによると、お母さんが自力で生き返ったのは、メッセージだといっていました。
「あきらめない」ということだとお父さんはぼくたちにいってくれました。これからは
弟をいじめたりしないようにします。何回もかくけれどぼくたちを見守ってください!!
ぼくはお母さんの分も長く生きます。ぼくがお母さんにおそわったことをゆうちゃんと
こうちゃんに教えます。ぼくたちは五人家族だよ!!くらまより。メールたくさんくれ
てありがとう!!すごくうれしかった。 2009年2月17日 蔵馬
お母さんへ
もうお母さんがいなくなって、6年が経ちます。お母さん元気ですか?
お母さんに、こんなふうにするのも6年ぶりだと思います。
お父さんは会社を辞めてNPOを設立して、雄祐は中学生になって
バスケットボールを始め、孝太は小学校に入って野球をやっています。
自分はもう大学受験です。志望する大学は富山大学の建築デザイン
学部に入るために勉強をしています。
小さい時からお母さんとよく色々な物を作ったりして、工作が好きになり
、お母さんがよく小物を作って持って来た作品を見たりして興味がありま
した。お母さんのペン立て今でも使っています。これがきっかけでこの道
に進もうと思いました。
お母さんがいなくなってから、僕ら3人は共大きく成長したけれど、お父さ
んが1番強くなったと思います。6年前は4人になって、自分もお父さんも
何をしたらいいか判らなくて、頼りないお父さんだったけれど、今では強くて
頼りになる自慢のお父さんです。
料理もびっくりするくらい上手くなって、特に「そぼろ煮」の味付けは抜群です。
1回食べて欲しいです。玉子焼きはお母さんの味が一番好きです。よくお父さ
んに文句ばかり言ってました。今では、お母さんの味と一緒で毎日食べています。
言いたいことが一杯あり書ききれないから終わりにします。また機会があったら
書きます。
これからも僕たち4人のことを見守ってください。
PS:お父さん、無理せんとしんどかったらちゃんと言って。僕ら3人がやるから
2015年11月2日 蔵馬より
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もう一つは高校の野球部の卒部式に私にくれた手紙です。大好きなお母さんの
勧めで野球を辞め受験勉強をする。しかし大好きなお母さんがいなくなり目標が
なくなり受験を諦め野球に復帰する。蔵馬の6年間の成長です。
お母さんへ
お母さんへ・・・。ぼくはとてもさびしいです。お母さんが亡くなったときいた時は
「うそだ、うそだ」と思っていました。でもこれは事実でした。お母さんのしんぞう
が止まった時はすごくびっくりしました。でもお母さんは自力で生き返ったのですご
くがんばったと思いました。
もっと早くに病気のことを言ってくれば・・・・。
お母さんが亡くなったからぼくは精神的にだめです。お母さんがいないとさみしいこ
とがいっぱいです。
ぼくが100点をとってもほめてくれない、ゆうちゃんとぼくをポケモンセンターにつれ
てくれない、家のそうじができない。お母さんの料理が食べられない、本をかってくれ
ない、いっしょにねれない、おもちゃやゲームをかってくれない、かなしい時になぐさ
めてくれない、こうちゃんのお世話をしてくれない。そしてぼくたち三兄弟をむぎゅ~
としてくれない。でもさみしくないよ。ほんの少しの間だからね。
ぼくはもっとお母さんにもっといろいろなことをしゃべりたかったです。受験は同志社
中学にします。勉強をたくさんして絶対に受かります。だから空の上からぼくのことを、
ぼくたち家族のことをみまもってください。
お父さんによると、お母さんが自力で生き返ったのは、メッセージだといっていました。
「あきらめない」ということだとお父さんはぼくたちにいってくれました。これからは
弟をいじめたりしないようにします。何回もかくけれどぼくたちを見守ってください!!
ぼくはお母さんの分も長く生きます。ぼくがお母さんにおそわったことをゆうちゃんと
こうちゃんに教えます。ぼくたちは五人家族だよ!!くらまより。メールたくさんくれ
てありがとう!!すごくうれしかった。 2009年2月17日 蔵馬
お母さんへ
もうお母さんがいなくなって、6年が経ちます。お母さん元気ですか?
お母さんに、こんなふうにするのも6年ぶりだと思います。
お父さんは会社を辞めてNPOを設立して、雄祐は中学生になって
バスケットボールを始め、孝太は小学校に入って野球をやっています。
自分はもう大学受験です。志望する大学は富山大学の建築デザイン
学部に入るために勉強をしています。
小さい時からお母さんとよく色々な物を作ったりして、工作が好きになり
、お母さんがよく小物を作って持って来た作品を見たりして興味がありま
した。お母さんのペン立て今でも使っています。これがきっかけでこの道
に進もうと思いました。
お母さんがいなくなってから、僕ら3人は共大きく成長したけれど、お父さ
んが1番強くなったと思います。6年前は4人になって、自分もお父さんも
何をしたらいいか判らなくて、頼りないお父さんだったけれど、今では強くて
頼りになる自慢のお父さんです。
料理もびっくりするくらい上手くなって、特に「そぼろ煮」の味付けは抜群です。
1回食べて欲しいです。玉子焼きはお母さんの味が一番好きです。よくお父さ
んに文句ばかり言ってました。今では、お母さんの味と一緒で毎日食べています。
言いたいことが一杯あり書ききれないから終わりにします。また機会があったら
書きます。
これからも僕たち4人のことを見守ってください。
PS:お父さん、無理せんとしんどかったらちゃんと言って。僕ら3人がやるから
2015年11月2日 蔵馬より
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